先週、叔父が亡くなった。
仕事中の事故で突然のことだった。
私個人は父方の親戚とは疎遠になり、もう数十年会っていなかった。
正直、どの面下げて葬儀に参列すれば無礼がないのか思いあぐねていた。
記憶の中の叔父の年齢を、私はとうの昔に追い越してしまっていた。
会場で涙ぐむ従弟と再会した、葬儀の喪主である、彼と最後に会ったのは中学生の頃だっただろうか。
マスク越しに子どもの頃の面影が見えた、釣りをしたり泳いだりキン消しを交換したり、昔はよく遊んだ。
叔母も私が来たことを歓迎してくれた、顔を見せなかった非礼を詫びた。
焼香のとき叔母が泣き崩れた、従弟が寄り添って支える。
出棺前のお別れ、叔母は拒絶した、イヤだイヤだ、どうか蓋を閉めないでくれと泣いて懇願した。
火葬場でも棺のそばを離れようとしなかった、火葬待ちで混雑しており職員に急かされた。
叔父の死は突然のことだったのだ、家族は心の準備など出来ていない。
同時に、50年連れ添った夫婦の間に愛があったことを知る、叔父は彼女に愛されていた。
それは、こんなに取り乱す姿を衆目にさらすことも厭わないほど強い愛のカタチだった。
様々な困難に打ち勝って、愛を抱いたまま二人は添い遂げた。
叔母は喪服の上に、叔父が亡くなった日に着ていたジャンパーをずっと羽織っていた。
これを着ているとお父さんとずっと一緒に居られる、それを聞いて涙があふれこぼれた。
同じ男として、この言葉が適切か判らないが、叔父を羨ましく思った。